時間はどこから来て、なぜ流れるのか?(BLUE BACKS)
唯一面白かったのは、バッターがボールを打ち返す際の脳内反応に関する実験とインタビューの話題。(後述)
そもそも間違って店頭購入した本。ブルーバックスから出た、ぶっ飛んでると噂の時間論の本を買うつもりだったのに、タイトル忘れて。。。
せっかくなので、読んだ感想。可も無く不可も無く、時間は意識の問題として流れるように感じられるだけという論理を説明してある。 が、あえて平たくいうなら、要するに人間の錯覚。それはもはや物理学の範疇じゃないわけで、物理学の知見からすればそう考えられるというだけの話で終わる。
唯一面白かったのは、バッターがボールを打ち返す際の脳内反応に関する実験とインタビューの話題。ヒットを打ったあとのインタビューでは、球種を見極めてからバットを振る決断をした、なんてことがあるが、生理学的にありえず、投手の手からボールが離れた時か、それ以前にバットを振っている・・・はずであって、意識内容は順序を捏造しているのだ! という。(嘘とはいわないが、それが物理学者らしい合理的説明なのだろう。真実かしら?)
詞花芳名帖 (塚本邦雄句集)
扉書きには「物名歌と折句にこめて二二三名の詞友に餞る」とあるが、二二三の歌がどれもこれも超然の境にいざなってくれるほど言葉ひとつひとつが撰び抜かれている。おあそびの折句ではない。
ただ、同名登場が二箇所あって、まさかの同姓同名?
当該最初の友は、秋谷(あきや)まゆみさん。一歌目は、
淡つけき桔梗の夕べやすらふは待つ人のながきながきゆあみよ
二歌目が、
碧瑠璃の秋や長月透きとほり蚕(こ)が眠る繭見つつかなしも (※「蚕」字は異体字で表記)
もうひとりの友は林和清さんで、この方への二歌は、
月夜佳し臘梅月夜ほととぎす月夜今宵ははや鹿月夜
花野の月流るる早し被衣(かづき)佳き女人と刹那すれちがひつつ
(・・・ううむ難解。)
あとどうしても記録しておきたいことは、装幀の気品かな。カバーは黒字なのに、カバー下に現れる標題は金箔の刻印で紙質の風合いはどちらも同じにしてある。渋い。
図書(岩波書店定期購読誌)2020年10月号
圧巻は桐野夏生さんによる、新作『日没』をめぐる武田砂鉄さんとの対談。桐野さんは自分たちの努力もむなしく「十五年ぐらい前から、小説が人に及ぼす影響力が著しく低下したと感じています」と発言。読者というか社会が変質してきたことを嘆いている。その糸を引いているのが政治でありメディアなのだ。
表現の自由をめぐっては、あいちトリエンナーレの騒動に象徴されるように、メディアが問題のすりかえをし、次元のことなる「言いたい放題」の話題を並列して報道。そんな愚行を二人して痛烈批判している。消費されるだけの小説になることを拒絶しつづける桐野作品は今後もたのしみだ。
最後に、ひとつ気になった点がある。表現の自由をめぐる話題の中に安倍首相の名と発言が出てくるのは自然なながれだと思っていたが、 後注でわざわざ「本対談は、安倍元首相が辞意を表明する前、二〇二〇年八月四日に行われた。」と付記してあること。武田さんの発言では「以前」と述べているんだし、どうしてそんなところに気を遣うんだろうと勘ぐりたくなった。
さがしもの(新潮文庫)(著)角田光代
令和2年5月発行の23刷に掛かっている帯は、今が旬の上白石萌音さんの顔写真入り推薦文。これで買う人も多いんだろうなと思いつつ、わたしは表紙絵のシンプルなのに見つめてしまう「何も書かれていない本」に吸い寄せられて買いました。(わざわざ言うことか!)
本にまつわる、というより本が主人公の短編集。そんな中でもとびきり魅力的な作品は「不幸の種」扱いされる本のはなし。「あの本」としか紹介されない正体不明の本がしかと存在感を放って有るところが、巧い。 どれを採っても明々白々フィクションではあるものの、わたしにはお伽話のように心地よく余韻を遺してくれる。
肝心のカバー装画のぬしは、吉田圭子さん。
今宵の月
ことしの中秋の名月は10月1日らしい。
日本人らしい「月」の表現を探したくなるたびに取り出す雑誌。2008年に出た『日本の歳時記』シリーズの一冊。今や歳時記はWEBにも溢れているのに、紙のほうが落ち着くのは歳のせいでしかないのかも。。。
いやいや、日本語は基本的に縦書きが似合うから、ヨコ書きメインの画面表示だと想いが載せにくい。。。などいうのも歳のせいかな。。。
#大岡信
#長谷川櫂
#西村和子 #宇多喜代子 #片山由美子 #中原道夫
#山田弘子
#尾池和夫
#中山圭子
#正木ゆう子
(なぜか目次には無いが)#吉野十三夜 さん執筆の俳人ものがたり「高野素十」も簡潔で佳い。もうすぐ素十忌(金風忌)だなあ。(10月4日)
自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く (角川ソフィア文庫)
テーマそのものには興味ないが、といっては著者に失礼かもしれんのに、言っちゃおう、そのまま。
ことの舞台が津軽だったから起こった事案なのだ。東京なら無かった。方言の威力だ。てことは、様々な分野において、標準語ベースでなく、強烈な(というのは言い過ぎ?)方言を用いて調査や論述が行われていけば、いわゆるその道の常識を破壊するナニカが見いだされるかもしれない、ということじゃないのか。何だか愉しくなってくる。
さて一応、本書の端緒だけメモしておく。著者の云く、
「健診で 母親 が方言を話しているのに、本人が方言 を話さないと自閉傾向がある。方言の使用不使用で自閉症を見分けることができる」という妻の主張、これ は困ります。大学で発達障害の講義を受け持つ私としては、・・・こんな発端から始まった自閉症研究のおはなしだ。
史記列伝(岩波文庫)
列伝はもともと大好きなジャンルなのだが、岩波文庫のシリーズは表紙のデザインに惹かれる。しびれるほどに。装幀をされている杉松欅さんというお方のことが気になって仕方ない。
樹木尽くしは本名?
時間を見つけてもっと探索しようと思う。
藤沢周平 遺された手帳(文春文庫)
朝の連ドラにしてほしい(とも思うし、しないほうが遺思に添うのかとも考える)くらい赤裸々な、有名作家の半生内面史。
時代小説の名手藤沢周平さんは生来寡黙だったようだが、日々の心の声、叫びを胸の内にしまって生きておられた最大の要因は年若く逝った妻に対する喪失感と、遺児への人一倍の愛情にあったのだろう。それでも物書きの性なのか、日記のような形で、ありのままの思いを遺しておられたのは、大人になった一人娘に何かを伝えたい、そんな動機が潜んでいたに違いない。その暗黙の意を娘が汲み取って、さらに世に披瀝したのは父の没後20年にもなっていた。親と子のあいだには、おそらくどの家族でも、本当に分かりあうのにはそれほどの期間が必要なのではないだろうか。(とはいえ、故人の心中は察するばかりで、真相は確かめる術などないのだが。)
流れとよどみー哲学断章ー
昨日の今日で、さっそく大森先生の本を探しに、近所の古本屋へ行けば、あった! 何十年ぶりで再会しても大森荘蔵先生のことばは一々深度が違うのです。
哲学的問題を日常レベルの場に引きずり落して論じて魅せる、これぞほんものの哲学者なのだと感服。字数の限られたエッセイはどこから読んでも、そこを突きますか? というほどに鋭いツッコミに満ちている。
たとえば「論理的」ということについて、それはそれほど理路整然としているのか、むしろ冗長こそ特性と指摘して始まるのだ、と。それでいて最後には、論理的な話題を、神にとっては理路整然とした冗長であるのかもしれない、と巧く落とし込んでいる。
科学者が人間であること (岩波新書)
「想定外」という言葉はイヤな感じ、と率直に訴えるベテラン科学女史の悔悟と提言そして警告の書。
自然とはそもそも想定が成立しない世界なのだから、おのが失敗を想定外ということは許されないと断じる。
東日本大震災の2年後に、科学者みずからが自身を顧みて、科学者のあるべき姿勢を問うた誠実な佳作。著者の中村桂子さんは1936年生まれだから、時代の最先端の科学研究に生きてきた女史。真摯なことばは重い。
この本の価値は、ご自身を含めたそうした科学者の内部にのみ向けられているのではないところ。科学のことは科学者に任せておけという大衆に対しても警鐘を鳴らしているのだ。
(ひとつ個人的な驚きは、本書で唐突に、わたしが若年にハマった大森荘蔵先生の思想が引用されていること。また勉強しようと思う。)
伊予の俳諧(愛媛郷土叢書11巻)
もともと「愛媛の俳諧史」執筆を頼まれたのに、明治以降の新派は書けないと著者の意向でタイトル変更となった本。昭和37年発行。
著者・星加宗一さんはそのころ県立八幡浜高校校長で江戸時代の俳諧研究をされていた由。なかなか頑固なお方のようだ。子規らによって月並み俳句などと蔑視された旧派について、擁護する立場を何度も表明されてある。批判されるに至ったのは、それだけ携わる裾野が広がりすぎて、中には藩主や身分の高い士、庄屋などあり、容易に排除できない弊害を有したためであって、駄作も多いが、「拾うべき珠玉がいくらもあった」と強調している(ほんと可笑しいほどに)。
伊予には芭蕉門人に学んだそこそこの人が幾人もあったという。元禄年間の人で隋友は相当な人だったようだが経歴等不詳。彫宲という人は松山藩の医官で其角に学び、其角の手引きで芭蕉を邸にむかえて即興の連歌俳諧の会を催した。
壬申(元禄5年)12月20日即興
打よりて花入採れんめつばき 芭蕉
降こむまゝのはつ雪の宿 彫宲
目にたゝぬつまり肴を引かへて 晋子
羽織のよさに行を繕ふ 黄山
(以下略。わたしにはよく解せないので、この辺で。)。。。黄山という人も松山の人。ほかに久松粛山という其角の弟子もあった。当時の松山は上から下まで其角に染まっていたという。
なお、この叢書は誤字が多かったみたいだ。所持本にはシリーズ既刊本「愛媛の植物」の正誤表が挟んであったが、植物名などの間違い多すぎだろ。よって本書もどこまで信じられるか不安になる。
絶対貧困 世界リアル貧困学講義(新潮文庫)
2009年に発表された、アジア・中東・アフリカのリアルな貧困社会のすがた。実際にスラム街や、女性がしきる売春宿などに止宿し、行動を共にしながら体感しているから、過酷苦渋な面だけではなくて人間の喜怒哀楽が見えている。読んでいて、壮絶な描写と並んで「面白い」なんて表現に出くわすと、この人不謹慎?と思いかけるのだが、立ち止まって考えれば、日本の快適な環境にいて読んでいるだけのわたしこそ、安直な批判なぞしたら余程失礼だと気づく。
ことばを失った若者たち (講談社現代新書) 1985/9/1
いまや、ことばを失った日本社会、ということになるのだね。
1980年代の若者のことば・コミュニケーションを題材に、社会の変容を眺めながら、これは近代以降の日本人論なのだ(とまでは著者は断じてないが)。明治維新の時も、昭和の高度成長期も、甘えあって生きる日本人は「迷惑をかけない」ことが最上の道徳と信じて、結局は他者との対立を回避する道ばかり選択してきちゃった(という実例をいっぱい挙げているのが本書)。
その意味では、平成令和に至っても本質は変わらず、もはやことばを信用できない大人ばかりで社会を回しているのだ。著者は、1980年代は話を聞いて欲しい若者ばかりが出来上がったといい、それは聞き手のいない社会だと訴えている。現代のSNS隆盛はその極みといえる。
話者と話者が激しくぶつかるように見えることもあるが、多くは、なるべく上手に撤退することを模索し、腹の中は見せずに取りあえず「イイネ」で繋がってみせる。本書は何の解決策も提示していないが、出来なかったのが真相だろう。日本は今なおずるずると、「力のあることば」喪失街道を突き進んでいるのだ。
それだから、わたし(を含めて多くの者)は、日々にことばを紡いで、抗う素振りを見せているのだろ。まるでブラックホールに吸い込まれる有人宇宙船の心地しながら。