『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』付録解説
ジェスミン・ウォードの最高傑作小説と絶賛しているアメリカ文学研究者・青木耕平さんの付録解説が、イイよ。
一番は、なんと言っても、イイ紙を使っている。(半分冗談。)
ウォードさんの境遇に始まって、小説家としての彼女の作品すべてに弟の死が描かれていると明かす。次いで、過去の作品を米国社会の姿とリンクして紹介し、本作を最高傑作と位置づけている。ネタバレは避けつつも、本作について読者からの質問に著者がいかに答えたかも記す。
葬られぬ者たちとは、誰なのか?
・・・無残な死に方をしたゴーストだけを指すわけではない。そこには生者も含まれている。
歌え、葬られぬ者たちよ、歌え (著)ジェスミン・ウォード(訳)石川由美子
答のない重苦しさ(とささやかながらも未来への希望の可能性)を描いたフィクションながら本作を読めば、米国黒人差別の問題に日本人がいかに程遠いところに居るかひたひたと感じられる。
のっけから山羊の解体描写の克明ぶりに、血肉のエネルギーが溢れる。それだけじゃない。生理の血、排泄、吐瀉物、・・・人間とは動物であるという当たり前の生々しさが米国の田舎の貧困、人種差別、殺人、暴力、ドラッグと折り重なってふくらんでいる。
登場人物のなかの三者三用の視点から描き分けられる物語は、客観的な出来事さえ、感じ方が異なる、これまた至極当たり前の状況が浮き上がっている。
あれから ─ ルワンダ ジェノサイドから生まれて/ジョナサン・トーゴヴニク (著), 竹内万里子 (編集, 翻訳)
あれからとは、日本語版『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』(竹内万里子訳、赤々舎、2010年)の出会いから。最初の出会いからは12年経って、何か解決に向かっているのか、いないのか。そんななか、殺戮のごとき性暴力で生まれた何万という子供は12年の間にどんなふうに自分の出自を受け止めていったのだろう。想像すら遠く及ばない世界が、現実に存している。
時代へ、世界へ、理想へ 同時代クロニクル2019→2020(著)高村薫
(図書館のシールの件はさておく。)
サンデー毎日連載の時事評論として炸裂してる高村節の魅力は、こんなふうに纏め読みすると鮮明になる。どれもこれも明らかに義憤以外の何物でも無いが、嫌みもなければ、人を卑屈にはさせない。
しかも市井の人間という立ち位置からぶれないから、決して難解な表現は無いんだけれど、毎回異なる言い回しをかくも淡々と繰り出せるって物書きのプロだなと念う。
見出しに出てくるマイナスイメージ語彙を並べると、
嘘、不見識、翻弄、こじれる、無視、軽視、異様、欲望ゲーム、悲しみ、何が、何のため、課題は、課題か、厳しい、奢りの果て、疑義、揺らぎ、沈む、暴言、疑念、不実、閉塞感、危うさ、温度差、無責任、根腐れ、隔たり、喪失、無恥、絶望、不可解、・・・・(まだまだつづくよどこまでも)
毎度毎度、こんなことばばかり並べているのに、悲壮にならないんだなあ。逆に、ちょっぴり希望がないわけでもないって気がしてくる。これがプロの物書きの仕事。
僧侶 (吉岡實詩集)
吉岡實さんの詩集としてはおそらく珍しい写真で構成された装幀。トラピスト男子修道院という、割と有名な施設の窓と木靴型らしい。はじめて見た時は、有名な、四人の僧侶の詩になぞらえて四人分の靴があるのかと思ったが、靴本体ではなく木製の靴型とのこと。この写真だけで充分シュールさが伝わってくる。
外界でもなく、内面でも無い、境界としての窓。そして、歩く足でも無く、履く靴でも無く、歩くための靴以前の靴型。その存在意義を熟慮するのを拒むかのように、怒濤の如く押し寄せる言葉の嵐に圧倒されてしまう。何度読んでも、これほど押しの強い詩は知らない。
昨日星を探した言い訳
陳腐な語彙のならんだ文章にはこれといった味わいもなく、一見、ありふれた学園小説みたいなのに、何故か先を読みたくなる不思議な魔力(?)があるらしい。実のところは、緑の眼をもった人びとなど決してフツーでない要素が空気の如く散りばめられているし、何よりタイトルも各部サブタイトルも始まる前から謎ありげに読者を挑発している。小技が効いていて、なおかつ、過去と現在を行き来する構成力が凄いのに知らん顔してフツーを装った作風は、案外きらいじゃない。真に、青春を、人生の青春を問うていると感じる。
離散数学入門 整数の誕生から「無限」まで(BLUE BACKS)
予備知識はとくに必要なく、高校生でも読み進めていける、と前書きにあるが、大昔高校生だったわたしには随分ハードルが高いぞ。読めるのと分かるのは違う。面白いのは確かだが。。。
中でも、興味をそそるのは今どきの学生の数学学習状況。公式に当てはめて問題を解くのは得意な一方、1.2.3...と数える問題を苦手とする「小学生以下か」という手合いが増殖しているとの噂。それって突き詰めれば、基本が出来てないのに、そこそこ試験にだけは強いということであって、きっと一流にはなれないんだろうな。(何を以て一流とするかも問題ではあるが。。。)
それから、鍵を握るんじゃないの、と感じるのは「発想力」。帰納的に考えたり、対称性を用いたり、いろんな数学の窓口があってそこは愉しいが、もしも発想の源が量的訓練に依存するのだとすれば、人類はさして進歩していない気がしてくる。まったく次元の違う話題になってしまうが、「ひらめき」を科学的に解き明かせるなんてのは夢のまた夢なのだろう(。。。か)。
ガチガチの世界をゆるめる
ゆるスポーツの仕掛け人・澤田智洋さんが「ゆるめる」に目覚めたのは我が子が障害をもって誕生したことが一番大きい要因だろう。でも、ちっとも気負ったところのないのが素敵だ。ある意味、出会うべくして出会ったヒトであり考えであり生き方に違いないし、時代と国土の要請という感じも強く感じる。
戦争論(上)中公文庫 (著)クラウゼヴィッツ (訳)清水多吉
「あらゆる組織における決断とリーダーシップの永遠のバイブル」との位置づけで読むのは、一般読者には千年早い。はっきりいって戦争について現実味をもって考える時に読む本だ。
平和ボケ日本でも本書を通じて将来戦を想起研究している研究会(という名の右翼)があるのをわたしも今般ようやく知って、空恐ろしくなった。
ナポレオン時代を経て生まれた戦争論の古典でありつつも、欧米諸国の戦争観、戦争目的と手段を考えるうえでは必須にちがいない。最大の眼目は、実践論に依拠しつつも、そもそも戦争とは何かを実例に即して究明し、さらに終結や停戦の要件条件について探求している点ではないか。それをふまえて、戦争放棄のもつ意味を改めて考えることも意義がある、それが本書の第一印象だ。
右翼にだけ読ませてないで、戦争放棄平和主義者も読まねば。